郷士について
同じ武士階級でも、その内部では更にいくつかの階級にわかれていた。土佐藩では上士と郷士の2つに分かれ、
上士の郷士よりも上位に位置した。
上士と郷士にわかれたいきさつは、関ヶ原の合戦までさかのぼる。
竜馬の生まれた土佐藩は、江戸時代以前は長宗我部家の領土だった。
ところが、関ヶ原の合戦で長宗我部は石田三成側についたため、徳川家康から領地を取り上げられた。
その後には、家康により遠州掛川にいた山内一豊が土佐藩領主となった。
このとき、長宗我部の家臣達は新たに入ってきた山内家に強硬に対抗した。
そうした抵抗に手を焼いた山内一豊は、長宗我部の家臣を郷士とし、後から来た山内家の家臣が上士として
区別して藩政に組み込んだ。
郷士と上士の対立はここから始まる。
山内一豊は相撲大会と称して、力自慢の郷士を集め、集まったところを皆殺しにするというようなことまでして、
郷士の力を弱めようとした。しかし、結果として郷士の上士を憎む気持ちは300年続いた幕末まで残った。
それが、明治維新を起こす力の一つとなった。